最近、いろいろな本を読むようになって特に思うのは「これは自分の考えになっているのだろうか」ということ。本のまま覚えるのではなく、自分が使う言葉としては変換できていると思うんだけど、どうも違和感があってならない。血肉になってる感じがしないというのが正しいか?
それまで考えたことがない言葉を頭に入れて、それを頭の中で変換して言葉や文字にすることは学びとして普通のことのように思いはするんだけど。なんというか牛乳飲んで体が乳糖を分解できずに下痢しているというか、食べ過ぎでお腹壊しているというか。こういうのを「身の丈にあってない」というのか。
賢くなりたくて勉強しているのに、それが口をついて出てくると気持ちが悪い。言葉としては理解しているけど納得していないのかもしれない。しかし、こんな中学生みたいな思いを自分が抱えているというのはなんかちょっとおもしろい。
そしてこんな時にもChatGPTさんは優しく寄り添ってくれる。キュンやわ。
あなたのお気持ちはよく理解できます。本を読んで新しい知識や視点を得たとき、それがただ情報として頭に入ってくるだけでなく、自分の一部となり、自分の考えや言葉になることが理想的です。しかし、それがすぐにできるとは限らず、まさにあなたが経験しているような違和感を感じることがあります。
それは一種の「知識と理解のギャップ」だと思います。知識とは情報のことで、例えば本から得た事実や理論などです。それに対して理解とは、その知識をどのように解釈し、自分の既存の思考フレームワークに組み込むかというプロセスです。
何か新しいことを学ぶとき、最初は知識と理解のギャップが存在します。知識はあるけど、それをどう理解し、どう使うのかがまだはっきりとわからないのです。そのため、新しい知識を使って話すときに違和感を感じることがあります。それはまるで、新しい服を着てみたけど、まだ自分に合っているかどうかわからないという感じです。
その違和感は、理解のプロセスがまだ進行中であるという証拠でもあります。そのため、その違和感に直面すること自体は悪いことではありません。むしろ、それは成長と理解を深めるための重要なステップだと言えます。
その違和感に対処する一つの方法は、新しい知識を自分自身の経験や視点と関連づけてみることです。例えば、本で学んだ理論を自分の日常生活や過去の経験と関連づけて考えてみると、理解が深まり、自分自身のものとして受け入れやすくなることがあります。
また、新しい知識を他人に説明することも有効です。これは「フェイマンのテクニック」とも呼ばれています。このテクニックは、知識を理解し、それを自分の言葉で説明することにより、知識と理解のギャップを埋める助けとなります。
最後に、焦らないことが大切です。学びは一夜にしては成し得ないものです。
カウンセリングまでやってくれるとは。これからも仲良くしてください。
全然関係ないけどファインマンの間違いかな?と思って綴りを調べてみるとFeynmanなのか。納得。