役に立たないものは本当に無駄なのか

好き勝手に考える

唐突に無駄とは何か考えてみる。無駄と言えばなんにも役に立たないものと連想するが実際はどうか。

無駄の反対は?いい無駄と悪い無駄

「無駄の反対語は何?」—無駄学の東大・西成准教授が自民党国交部会で意見

反対語は「効用」「活用」だとある。活用できなければ、利が低ければ無駄と言われれば、まあそうだろうとひとまず納得はできる。

私の場合は小学生のころゲームをしていて無駄なことをするな、勉強をしろと親に怒られたことはよくあった。消しゴムのカスをひたすらに丸めて大事に取っておくなどでも怒られた。授業中、丸めることに必死になっていたあの集中力は今思えば何だったのだろうか。

親になった今、消しゴムについてはわからなくもない。筆箱から大量にこぼれ落ち、部屋に散らばるカスの山。掃除する身にもなってほしいものである。
ゲームに関してはeスポーツなども盛んになり、昔に比べれば怒るような親も減ったのかもしれない。
大人になってみると、ゲームをしている時間が無駄に感じてしまい、その分勉強しておけばよかったなと公開することもあったりするので、あのときそう言っていた親が間違えていたとは別に思わない。
ただ、あの頃言われていた「無駄なこと」とはその時代や世代の価値観によるものと言うことになる。昨今はあえて無駄を作るようなものがトレンドに上がったりもしている。無駄を楽しむ世界観は、世の中が効率化していてそれを自覚しているからこその逆張りな気もするが。

また、無駄にはいい無駄と本当の無駄があると時々耳にする。しかし、ゲームの例も含めて何を持ってして本当の無駄とするのか。不要なものを作っている時?空を眺めてる時間?酒を飲んでる時間?法に抵触するようなものはひとまず論外として、誰がそれを無駄と決められるのか。

先の反対語の記事では期間が大事だとあった。そうだと思う気持ちもあるがあまりしっくりこない。

冗長をコントロールする

話は変わって、上手く話せることは論理的ではなく冗長率をコントロールできる力である、との記事をみて面白い視点だと思った。

冗長率を下げて効率化することもできるが、長い目で見て円滑なコミュニケーションを取るために一見無駄に見えるものを的確に差し込む。そしてそれを無駄ということは難しい。

結局は主観でしかないのか

結局のところ無駄かそうでないかなんてものは主観でしかなく、誰かが何か言ったところでそれこそ無駄なのだと考える。これがビジネスだと、無駄なことをするのはコストがかかるので話は別となりがちだが、無駄なことするなと言われた時に「それを組み入れた結果こうなることが予想できるのでやってるんです」と説明ができないことが問題なのではないか。自身がやっていることが無駄だなと思いつつ改善もせず、また改善されない理由も理解しようとせずに黙々と取り組むことが問題なのではないか。

一見ゴミが散乱している現場を、アートだと言われれば納得はできないまでもそういうものもあるかもしれないと思う人もいるだろう。「人生に無駄はない」という言葉があるが、これが能動的にリスクを取りに行く人が言う言葉なので他人にはわからない。

どんなことでも「その人にとってどう映るか」という話でしかない。

であればなにかに取り組もうとしたとき、あっさり切り捨てられるなら無駄、そうでなければとっておく。あとで大事な方に入ってくるならそのとき考えることにするのはどうか。どこか罪悪感を抱えながらも遊んでしまうなら、そこからなにかを得るつもりで遊ぶほうがよほど建設的だ。何も考えずに遊べるならもちろんそれが一番いい。

情報や経験は無駄になることがあるか

ふと思いついたこととして「取っておいた情報や経験はゴミのように溜まるのか」。

掃除や断捨離をしなければ部屋の中にものが溢れかえるが、頭で得たものはどうなのだろうか。個人的には、吐き出す場がないとどんどん溜まっていき、切り捨てられなくなるのではないかと考えた。切り捨てられないものが溜まると精神に悪い影響を及ぼすのではないかと思っていた。

しかし自分自身の中にある情報や経験と得たものがリンクすれば、どんなものも無駄にならないのではないか。逆に考えると、リンクしないまま眠っている情報が無駄というか勿体無いものになるかもしれない。なので学ぶ時はそれを意識してさえいればなんでも自由に取り入れられ、吐き出すことができるのではないか。

インプットするときはリンクに意識して行うように心掛けたい。

タイトルとURLをコピーしました